河村瑞賢 商品をこえた日本の偉人 河村瑞賢 ゆかりの地めぐりマップのダウンロードはこちら

河村瑞賢 [ Zuiken Kawamura ] とは

河村瑞賢は、元和4(1618)年に東宮村(現:南伊勢町東宮)で生まれました。13歳で江戸へ出たのちは、車力として生計を立てていましたが、川に流されたお盆のお供え物の野菜を集めて、漬物を作って販売した話は有名です。

明暦の大火(1657年)をきっかけに材木商として財をなしたのちは、幕府や諸大名からの依頼により、多くの公共事業に携わりました。
東廻り・西廻り航路を整備し、船の航行の仕組みを整えて、当時の物流を劇的に改善したことをはじめ、畿内では大規模な治水事業、新潟では用水敷設や銀山開発などの事業に取り組みました。現場に赴き、自分で考えて問題を解決することにより、様々な事業を成功させたと伝わります。瑞賢は当時を代表する豪商であるとともに、様々な社会インフラ整備のプロジェクトリーダーとして活躍しました。

これらの功績により、晩年には旗本として武士の身分を与えられましたが、元禄12(1699)年、82歳で亡くなりました。お墓は鎌倉の建長寺にあります。

江戸に拠点を置き、全国で活躍した瑞賢ですが、河村家の記録には、東宮村や奈屋浦で飢饉や火事がおこると、その復興のために多額の資金援助をしたことが記されています。
出身地の東宮に残る、生家跡地、瑞賢が奉納した大般若経や石の鳥居など、瑞賢ゆかりのものを中心に紹介します。 

生家跡地の場所

河村瑞賢の「生家跡地」は、しばらく分からなくなっていましたが、これを遺憾に思った御木本幸吉が買い取り、敷地内に碑を建てました。「生家跡地」であることを直接的に示す資料は、現在も見つかっていませんが、『河村氏由緒書』には、その手がかりが残されています。

これらの記述から、河村家の屋敷地が、

  1. 文禄年間(1592から1596年)には、下垣外の北側にあり
  2. 元禄11(1698)年には、堀と川(東宮川)で区画された、1,800坪(約6,000㎡弱)の敷地であったことが想定でき、瑞賢の生家も現在残されている敷地やその周辺にあったと考えられます。

一、文禄年中土貢島へ引越候節ハ、(中略)居屋敷より南を、南垣外又下垣外と唱え、東ハ山迄を東垣外、北を北垣外又上垣外と唱へ申候、西ハ川限、其より諸々谷々開発ス
(中略)
一、元禄十一年子三月改所領、追々開発之分
一、居屋敷、坪数千八百坪也但シ東南北掘限リ西川限リ

御木本幸吉が建てた碑

伝:河村瑞賢生家跡地

東宮八柱神社の入り口にある石の鳥居(南伊勢町指定文化財)

石の鳥居

向かって左の柱には、「維? 寛文三癸卯九月穀旦鼎建 河村氏敬奉」と刻まれており、河村瑞賢が寛文3(1663)年に奉納したことがわかります。向かって右の柱には、明国からの帰化人で尾張藩に仕えていた陳元贇(ちんげんぴん)の詩が刻まれています。
 
厳厳華表 聳具瞻兮 赫赫威霊 福一方兮 
福一方兮 鼎奉不忘 聳具瞻兮 永劫??
大明武林 既白山人 陳元贇沐手拜銘
 
この鳥居は、宝永4(1707)年の地震で倒壊しましたが、天明元(1781)年に再建されました。また近年では、昭和19(1944)年の昭和地震で倒壊しましたが、修復されたと伝わっています。

大仙寺へ奉納した大般若経(南伊勢町指定文化財)と文化財

河村瑞賢が寛文4(1664)年に大仙寺へ奉納した大般経です。全部で600巻ありますが、各巻末に、「寛文四甲辰暦孟春吉且 河村氏政直奉」と手書きされています。

延宝2年(1674年)に河村瑞賢の二男の政朝が、大仙寺や故郷に奉納した仏像です。

『河村氏由緒書』にみえる故郷への援助

『河村氏由緒書』
河村瑞賢が東宮村や奈屋浦へ資金援助をしたことが記されています。
*赤線部分に「瑞賢様より」とある

各地に残されている瑞賢の足跡や記念碑

日本全国を巡った河村瑞賢。各地に足跡が残されています。