文化財の紹介

更新日:2020年10月22日

国指定文化財

オジロワシ

オジロワシは、わが国で繁殖する猛きん類中最大の種類で、翼の開長(かいちょう)2メートルに近く、北海道東部に繁殖し、秋冬の頃本州南部にまで南下する。魚食性が強いが、鳥類やウサギ、ヘビなども補食する。三重県内では、伊勢市から尾鷲市の海岸で、冬季にごく少数観察される。

鬼ヶ城暖地性シダ群落

暖地性シダ群落

南伊勢町の旧南勢町と旧南島町の境界に当たる度会山地の北斜面に、昔、鬼が住んでいたという伝説のある奥行き9mほどの洞穴があるが、その付近一帯は絶壁が多く、その岩上には暖地性羊歯植物が豊富に生育している。主要なシダ類はヌカボシクリハラン、ハカタシダ、ナチシダ、ナチクジャク、オオフジシダ、アツイタ、キクシノブ等で、特にキクシノブは岩面に良く発達し、アツイタも急斜面に多く見られる。

細谷暖地性シダ群落

鬼ヶ城暖地性羊歯(しだ)群落から西方に約2kmの山間に位置し、付近はスギの造林地となっている。その造林地の中に岩石が露出して植林できない場所があり、そこに多くの暖地性シダ植物が繁茂している。シダ類の植生は鬼ヶ城とほぼ同様であるが、特筆すべきこととして、リュウビンタイの生育があげられる。シダ植物以外にはヒカゲツツジ、ホンシャクナゲが多く、これも鬼ヶ城とほぼ同様である。

国登録有形文化財

片山寺 本堂・土蔵

三重県片山寺本堂

阿曽浦集落の急峻地に構える境内に南面して建つ。平面は六間取の方丈形式で、仏間背面に眠蔵をもつなど古式を備える。軸部や内装は簡明ながら、屋根を本瓦葺として重厚な趣をもつ。地方禅院における江戸中期の方丈型本堂の好例であり、歴史的景観に寄与する。

県指定文化財

木造大日如来坐像

像高111.2センチメートル、檜材、一木造。高髻で天冠台をつけ、宝冠を戴く。地髪は天冠台下前面をまばら彫し、その他は平彫をする。白毫相をあらわし、条帛をかけ、折り返し一段の裙を着す。臂釧、腕釧、胸飾をつける。智拳印を結び、左足を外に結跏趺坐する。頭体一材、これに両肩部横木一材を矧ぎ寄せ、腰部左右に三角材を補う。両腕は肩、肘、手首で矧ぎ、宝髻は駄枘(ダボ)で地髪部にとめる。平安時代後期(12世紀中頃)の、定朝様とは異なる奈良仏師の作品と考えられる。本像は、近在の仙宮神社大日堂の本尊であったが、同堂が安政元(1854)年の津波により罹災したため、現在の西方寺本尊の脇壇に移したと伝える。
 

雲板

雲板

撞座は普通のものとは違い蓮台のような形をしている。頭頸腰各部の曲線も鋭く、表に「定向庵常住、延文3卯月吉日」裏に「志?安居郡阿曽御園片山冷泉庵・文明6年3月、勢州度会郡阿曽郷霊泉峰片山禅寺什具、享和2壬戌冬12月初吉日 現住泉岳誌」の銘を刻し延文3年ごろの作であることが分かる(『三重県文化財要覧』第3巻)

紙本墨書竈方古証文 附 古枡及び竹概

紙本墨書竈方古証文

南伊勢町(旧南勢町、南島町)の海岸沿い八ケ竃(今は七ケ竃)が輪番で保管する。各竃は古来製塩を業とした集落であったと考えられ、漁村の間に点在するにもかかわらず漁業権を持たず、古文書もほとんどが塩を炊く薪木の採取源であるカマ山の権利に関するものである。文書は、製塩が全く行われなくなった現在も、御証文と呼ばれて神聖視され、旧正月の神祭に厳重な受け渡し式が行われる。主なものとして「八幡神社縁起」「竃方系図」「竃山法度」「一ノ谷戦功記」等があり、多くは桃山時代以降のものである。古枡は昔、塩を計った伝えられ、内法方16.7cm、深9.7cm、外側四面に「六か、ま、中、升」と一字づづ陰印されている。

紙本墨書古和文書

南北朝の争乱期、北畠親房の募兵に応じた兵に、古和村の住民があった。彼らは伊勢平野に進出し各地で転戦した。古和文書は、北畠氏から与えられた恩賞に関する文書を中心に、北畠一族の御教書17通よりなる。正平24(1369)年、建徳2(1371)年の北畠顕信袖判御教書をはじめ北畠方兼奉書等室町末期にいたる文書である。南北朝期の文書が「古和一族」に宛てられているのに対し、室町期になると、殆どが古和の「奥」又は「借屋」氏に宛てられており、組織変遷の経過をうかがうことができる。なお、17通の内、9通は原本であるが、8通は影写本的な模本であり、原本は失われている。

紙本墨書大般若経(正泉寺所蔵)

黄褐色の楮紙を用い、薄墨で罫を引き、楷書体で書写されている。筆跡から600巻を数人が分担して書いている。巻600の末尾に「建保ニ(1214)年十二月廿八日以蓮台寺之本校合畢 件本解脱房貞慶被進神宮云々」と交合記があって、解脱房貞慶が神宮へ法楽の為に奉納した大般若経が、蓮台寺という寺にあって、それと校合したということである。いつから当寺の所蔵となったかは不明であるが、享保6(1721)年には当寺住職によって修理と欠巻の補写が行われており、その際に巻子装であったものを折帖に仕立てられたようである。保存状況も良く、一部に補写はあるが鎌倉時代初期の写経として貴重なものである。

紙本墨書大般若経(甘露寺所蔵)

一紙幅55.4cmの黄楮紙に30行の罫線を引き、楷書体で1行17文字に書写している。筆者は数名あるようである。巻第150の奥書に「元暦元(1184)年甲辰九月十日写畢 筆祐慶」とある。また巻362の奥書には「貞治6(1367)年丁未二月廿三日安置志摩国古和浦者也」とあり、183年後に古和浦の所有になったことがわかる。巻子装。表紙は最近の補修であるが、軸は継軸で両端に黒漆を施してあり、書写時のものと考えられる。筆者は数人あるが、いづれも写経に慣熟した筆致で、県内を代表する鎌倉初期の優れた写経である。なお、600巻のうち、巻第599号を欠失している。

宝永・安政津波供養碑(最明寺の供養碑)

最明寺の供養碑

贄浦の最明寺の境内にある石碑である。石碑の銘文から、宝永4年(1707)10月4日と嘉永7年(1854)11月4日に起きた地震と津波の被害状況と今後の心構えを記している。碑の右面には嘉永7年11月4日に大地震と津波があり溺死者3名、流出家屋60余、破損家屋数知れずという被害があったこと、大地震があれば必ず津波があることを教訓として伝えている。また碑の左面には宝永4年10月4日に津波があり、溺死者60人余の被害を出したこと、碑を建てた安政3年(1856)がその150回忌にあたることから、村中の善男善女の浄財により、浜で大施餓鬼会を修したことが記されている。この石碑は宝永・安政の大地震とそれに伴う大津波という、三重県の歴史上極めて重要な事象に関する遺品として価値が高いものである

宝永津波供養碑(最明寺の大乗經碑)

最明寺の大乗經碑

贄浦の最明寺の境内にある石碑である。石碑の銘文から、宝永4年(1707)10月4日に大地震のあと津波があり、贄浦の家屋が残らず流出し、男女60人余が溺死したこと、この碑の所まで津波が到来したことを伝え、今後もし大地震が起きたならば、必ず津波が来ることを教訓として記している。この石碑は宝永の大地震とそれに伴う大津波という、三重県の歴史上極めて重要な事象に関する遺品として価値が高いものである。

宝永津波供養碑(甘露寺の三界萬霊碑)

甘露寺の三界萬霊碑

古和浦に近い甘露寺の境内にある石碑である。石碑の銘文から、宝永4年(1707)10月4日未刻(午後2時頃)に起こった地震(宝永の大地震)が海水を動かし、白波が陸地3丈(約9m余)に達したこと、波を受けたところの民家は一宇残らず流され、老若男女80人余りが溺死したことを伝え、もし今後このような地震が起きたならば、人屋の上や山頂に登り、決して退いてはならないと警告している。この石碑は宝永の大地震とそれに伴う大津波という、三重県の歴史上極めて重要な事象に関する遺品として価値が高いものである。

五ヶ所城跡 附 愛洲氏居館跡及び墳墓

五ヶ所城跡

史跡跡は五ヶ所湾を南に望み、蛇行する五ヶ所川に挟まれた要害地である。少し高所の2重土塁に囲まれた方形区画の主郭とその南の1辺約40mの方形館跡で構成される。裾には愛洲氏の墳墓とされる五輪塔群がある。居館と詰城がセットとなった好資料である。

道方の浮島

浮島は東西22m,南北83mの長楕円形の沼野で四周は水田となっており、いわゆる海跡湖である。島は現在移動することはないが、かつては周囲の水位が上昇すると島もそれにあわせて上がったと言われる。島内部はハンノキ等の高木のほか、ノリウツギ、アセビ、ネズミモチ等の低木が互いにからみあい林床を形成し、そこにヤマドリゼンマイ、ゼンマイ、アブラススキ等が下生植物として繁茂している。

ハマナツメ群落

ハマナツメ群落

ハマナツメはクロウメモドキ科に属する暖地海岸特有の落葉潅木で、分枝が著しく、葉は互生し葉柄は短く、晩夏に淡緑色の非常に小さい花を咲かせる。三重県では度会郡から南牟婁郡の海岸にかけて点々と生育しているが、この塩竃浜の生育地がその最北にあたり、群落としても最大のものである。生育地は浜の内側にある海跡湖の周辺にあり、生育は良く、樹高は3mから4mに近いものもある。

野見坂の地層褶曲

野見坂の地層褶曲

伊勢市と南伊勢町(旧南島町)を結ぶ野見坂は宮川水域と熊野灘沿岸斜面との間に連互する山系を横断する峠で、頂上の標高約500m、見晴らし良く、太平洋が一望できる。野見坂には至る所に地層褶曲が露出しているが、指定の褶曲は標高約240m、ほぼ西向きの岩壁上に底辺約10m、高さ約9.5mの二等辺三角形状を呈し、峠道からも良く見える。 全面秩父系角岩の厚さ3~10cm程の板が無数に積み重ねたような累層が複雑な曲線を描いている。

獅子島の樹叢

獅子島の樹叢

獅子島は五ヶ所湾内にある面積33ア-ルの無人島である。三重県南勢地方のリアス式海岸近くに見られる島の典型的な植生を示す。高木のクロマツのほかタイミンタチバナ、ウバメガシ、イヌマキ、ヤブツバキ、ヤマモモ、ホルトノキ、シャシャンボ、モッコク等の木本、ヒトツバ、ビロ-ドタツナミ等の草本等約20種の植物が生育している。特に島の西北部の汀先付近にはハマジンチョウがある。これは、別名ハマベンケイと呼ばれ、熱帯性の海浜塩性植物で本州ではこの獅子島以外には知られていない貴重なものである。

見江島のイワツバメ棲息地

鵜倉半島の先に浮かぶ見江島は、中生代的矢層に属し、頁岩と砂岩系の層をなし、その走行にしたがい海触によって岸壁を深く穿ち、洞口を西方にむけている。内部の水温は寒中でも10度を下らず、洞口内外は魚介類が豊富であり、山地は暖地性植物がよく繁茂している。この洞窟の内部や付近の岸壁にイワツバメが営巣し、また越冬している。指定当時は毎年100羽程度が越冬しており、営巣数は約15個、1個の巣に平均7羽程度がいたということであるが、最近はその数が減っているようである。

県選択無形民俗文化財

切原富士講

切原富士講

切原の浅間山を対象とする信仰で、2年交替の本宮代参、浅間山大祭、竹・ほら貝・等の祭具、竪杵の餅搗等に特色がみられる。

町指定文化財

鬼瓦(大智院所蔵)

当寺は八ケ竃(今は七ケ竃)の本寺で今から約400年前に開山されたと記録にある。現在の本堂は宝永年間に再建されたといわれている。当町指定の鬼瓦はそのころの作である。

獅子頭(木造)付 文書1通【伊勢路】

獅子頭(木造)付 文書1通

伊勢路における獅子舞の由来は古く、遠く室町時代の一四三九(永享一一)年にさかのぼり、獅子頭を造営し、猪頭仲間と称して堅く党を結んで行事を伝えたという。なお、 指定の獅子頭には、江戸初期の特徴が見られる。

獅子頭(木造)【斎田】

【斎田】獅子頭(木造)

当区の獅子頭神事は旧1月4日に行われる。ここには両箇の獅子頭があるが、指定されたものは、今は使用されていない古い方である。大きなどんぐり目をし、口の辺りの特徴などからは、桃山時代の秀作とみられる。

木造阿弥陀如来坐像【伊勢路】

木造阿弥陀如来坐像【伊勢路】

もとミダ山というところに祀られていたものと伝える。ヒノキ材、寄木造り、玉眼、白毫、水晶、ただし肉髻を欠く。総高八四cm。室町時代初期の作品といわれる。像底から見た胎内構造も鎌倉様を踏襲していて、顔・胴・膝・衣文等に時代の特色がうかがわれ、各部の比例のよく整った像である。頭髪は螺髪でなく、京都市清涼寺の釈迦像様で、文化財的価値の高いものである。

木造薬師如来坐像【船越】

【船越】木造薬師如来坐像

もと医王山長福寺の本尊であったが、いつのころか廃寺となったため、船越区で管理している。カヤ材で、頭・胴とも一木彫りである。総高73センチメートル。彫り目、白毫・肉髻共に木。顔・胴・膝・衣文等の彫りは鋭く、特に膝部には宋朝様の衣の畳みがあり、腹部には腹帯が見られる。像底から見た胎内構造も鎌倉様式を伝えて堅固、したがって室町初期の像とみられる

木造薬師如来坐像【相賀浦】

銘記等はないが、鎌倉末期から南北朝初期の特徴がみられるという。寄木造り。総丈84センチメートル、顔19センチメートル、頭8センチメートル、耳16センチメートル、膝幅72センチメートル、肩幅43センチメートル。結跏(左足上)。白毫は硝子。塗りは後のもの。顔に立体感があり、目は切れ上がっていかつく、鎌倉様式で快慶風である。ただ身体の衣紋が厚っぽく、通肩の狭い点に室町期の特徴もうかがえる。

天保飢饉餓死疫亡者供養塔

天保の飢饉により古和浦では400人に達する餓死者と流行病による死者が出た。それらの人々の供養のため建立されたものである。

石の鳥居【東宮】

石の鳥居

河村瑞賢が寛文3(1663)年に八柱神社に奉献したものである。この鳥居は、宝永4(1707)年の地震で倒壊しましたが、天明元(1781)年に再建されました。また近年では、昭和19(1944)年の昭和地震で倒壊しましたが、修復されたと伝わっています。

五ヶ所浦浅間碑(石造)

五ヶ所浦浅間碑(石造)

四面に浅間菩薩像を陽刻し、裏面に延宝6戍午天5月吉日(1678年)とある。当町には各地区に浅間が祀られているが、指定のものは年代的に当町では最古のものである。その上、他の多くの浅間像は、すべて大日像か、又は浅間菩薩像が正面から拝されるようになっているのに、この石柱は四面に菩薩像をあらわし、富士山が四方の国から拝まれる態を示し、石造工芸の面からも特徴が見られる。その上、この像の右下方に宝永山(1707〈宝永4〉年噴出の山)をも祀って、富士山の実相を具体化しているのも、他に見られないものである。

大般若経600巻【東宮】

【東宮】大般若経600巻

河村瑞賢が祖先供養のため菩提寺である大仙寺に奉納したものである。

田曽浦文書

田曽浦の庄屋をつとめた北村家の所蔵文書。その一部は明治大学刑事博物館蔵となって「田曽浦文書」とされているが、その余りのものを当町の「田曽浦文書」として指定する。それには、北村家伝来の文書と田曽浦庄屋文書とを主として81点がある。中に天文・天正のものなどは、町内としても貴重な文書である。

神宮庁宣並に関係文書

神宮庁宣並に関係文書

慶安元年(1648年)伊勢神宮が度会郡船越村に出した庁宣と、船越の土社(土宮)に関する文書の控え等の関係資料、及び書物入れです。

礫浦宮山古墳出土品

礫浦宮山古墳出土品

1984(昭和59)年、礫浦宮山古墳が関西大学考古学教室によって発掘調査され、その全容が明らかにされると共に、多くの出土品が得られた。その数64点。石室内からは金剣、鉄製品、須恵器、土師器などが発掘された。特に双竜紋環頭太刀は県内で出土例が少なく、この古墳の埋葬者の地位を考える上で重要である。

和同開珎

和同開珎

昭和51年3月14日、迫間浦字道瀬17、18番地で調査発掘中、須恵器碗の底部片を伴って出土した。いわゆる新和同と呼ばれるもので、右回りに「和同開珎」と鋳され、径25ミリ、方孔1辺6.5ミリ、最大厚1.2ミリ、重さ2.6グラムである。字体は鋳崩れがなく、比較的細字で明確である。保存状態も極めて良好で、サビの附着も少ない。

五ヶ所小学校太政官布告

五ヶ所小学校太政官布告

1873(明治5)年7月、太政官布告第214号が布告され、俗に「学制序」とか「御布告書」と呼ばれる。これ即ち「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」とするもので、五ヶ所小学校では、それを縦六五cm、横11cmの額に仕立てて校内に掲げて来た。伊勢湾台風(1959)の雨漏りなどのため一部汚損されているが、現在、三重県下唯一のものである。

奈屋浦の獅子舞

奈屋浦天狗の舞

熊野田辺より移住し、一村取立直後より伝えられて今日に至っている。神話を原始的な降魔の儀式としたものと解され近在にない異色とされている。

(写真は奈屋浦天狗の舞)

古和浦山神祭

古和浦山神祭

この祭りは古式を存した(ほとんど原型のままに存続している)もので、その期限は不明であるが、夜間に行われること、鳥役が登場すること、祭文が他に例を見ないものであること、しめ縄が特異なものであること、オコゼの魚が祭典に欠かせないこと等、町内でも残り少ない珍しい祭りである。

道方かんこ踊り

道方かんこ踊り

この踊りの起源は不明であるが古老の話によれば300年くらいにさかのぼることができるといわれている。踊子は鉢巻半襦袢、赤白タスキに腰みのをつけ、かんこを腰にして踊る。歌は16種類からなり小宿老、大宿老が唄い手となるその外提灯持ち、シャグマ持ち、槍持ち、弓矢持ち、箱持ちや貝吹きなどがある。毎年お盆に踊る。

伊勢地かんこ踊り

伊勢地かんこ踊り

起源は不明であるがいろいろ資料を総合して多分江戸時代からのものであり土地の人々は鼓踊又は豊年踊とも呼んで、指定以前は10年目とか数年目に踊っていたが昭和47年から盆の行事として毎年踊るようになった。唄は10種類からなり、カンコ、ササラの踊手18人、ケゴ人(女の子)18人、塩振り、たいまつ、鉄砲うち各1人、貝吹き4人、唄い方若干名よりなる組織である。

方座浦浅間祭

方座浦浅間祭

方座浦の浅間祭は2日間あり、1日目は園児による御輿や浴衣姿に化粧をした80~90人程の男性による浅間踊りが行われ、終了後打ち上げ花火が行われます。2日目は、顔に化粧をした男衆が幣を立て地区内を歩き、幣にお神酒を注ぎ踊ります。最後に男衆によって浅間山神社へ幣が奉納されます。

【参考資料】

方座浦の浅間祭(令和元年度志摩文化財保護年報より)(PDFファイル:2.1MB)

慥柄浦大神楽(獅子神楽)

慥柄浦大神楽は年越しの初詣参拝者で賑わう慥柄浦八柱神社で行われます。
鈴の舞と剣の舞が奉納された後、参拝者の頭噛みを行います。

山の神【斎田】

山の神【斎田】

ここの山の神は、小祠の神明造にすぎないが、そこに供える神宝とその祭祀に特色を残している。祭祀ごとに、ネムの木で作った男根状のものを供えることになっている。山の幸と繁栄を祈るものという。その由来は不詳であるが、毎年、地区の六地区が交代で出した六人の代表が、ネムの木の供物(珍宝)の製作にあたる。これを神前に供えて、無病息災・山の安全を祈る。

日和山古墳

日和山古墳

直径13メートル前後、高さ3.5メートル前後の規模をもつ円墳であったと考えられる。南に開口する両袖式の横穴式石室で、石室はほぼ構築時の原況を保っている。埋蔵品は皆無であるが、近くから須恵器片が発見されている。

オハツキイチョウ

オハツキイチョウ

幹周り3m52cm、樹高20m。推定樹齢400年と見られる。当町押淵出身の植物学者広出泰助氏によって「おはつきいちょう」と発表されたものである。特徴は、時折葉の先に果実(ぎんなん)を付けた葉がみられる。

巨樹 ヒメシャラ

巨樹ヒメシャラ

五ヶ所浦区有林の指定木は、胸高周囲260センチメートル、樹高18メートル、地上2メートルのところで大きく3本に分岐。推定樹齢約400年で全国級の巨樹である。

方座浦墓地境内のアイグロマツ

アイグロマツ

大正末頃に方座浦区墓地区画整理に伴い、地区内に自生する松1本を移植して墓地景観を整えたものであり、古くから地区の人々に親しまれています。現在、町内では3番目に大きい松となります。

文化財の紹介